無⑤ 無を想像し、新たな何かを創造する

 

今必要とされる“ソウゾウ”は、どちらだろうか。
 

想像(イマジネーション)、それとも創造(クリエーション)
 

記憶が定かではないが、「21世紀は、想像よりも創造が求められる」という話を聞いたことがある。私もどちらかといえば創造だと思っていた、違和感が生まれるまでは。しかし創造に違和感が生まれてからは、想像に意識が向いている。日本画家の千住博は、次のように語っている。
 

20世紀はクリエーションが先行して、イマジネーションが欠落した時代でした。

(『襖絵大全』より)

 

想像が欠落していたからこそ、想像がより求められるのではないだろうか。
 

冒頭の問いの、想像か創造のどちらかという話ではない。想像も創造もどちらも大切である。想像したものを創造することも、創造するための想像も、どちらも必要である。ただし、20世紀は創造のクリエーションをより求めたので、21世紀は想像のイマジネーションに意識をより向ける必要がある。それは、創造に意識が向いているから。だからこそ、私は想像の大切さを深く思索した。
 

想像するとは何か。
 

“像”とは、何を指しているのだろうか。未来やビジョンそしてあり方など、私たちがカタチにして欲しいと願っているものが像である。別の表現にするなら、自分の心を映した姿といえる。具体的なみえるカタチではなく、抽象的で曖昧でみえにくいカタチが像である。今まで書いてきた“無”に近いともいえる。
 

この文章を書きながら、あることを思い出した。私の大好きな作家の若松英輔の言葉である。
 

若松の講座に参加し、「読み手に何を伝えよう(メッセージ)と思って、書いていますか」と質問を書いた。運よく質問は選ばれ、「何かを伝えようと思って書いてはいない。私が受け取ったコトバをただ顕しているだけ。読者が、私の書き顕したことをどう感じるかです。」と若松は答えた。この答えを会場で聞いた時、予想外の答えであり首を小さく横に振った。少し時間をおいて、若松の言葉を意識しながら若松の本を何冊か読んだ時に、若松が何を言いたかったかがわかった。「何かを自分の内側で感じることが、今大切である」と言っていたと、私は受け取った。相手が何を伝えようとしているかも大事だが、私が何を感じたのかがより大切である。
 

若松の言葉から想像とは、「語られていない何か(像)を想うこと」である。「自分の外側の世界を想い、それを内側の世界に映す、いや宿す」ことを、今大切にしなければいけない。相手を想わなければ、社会はどうなるだろうか。対立しか生み出さない。
 

前回触れたが、西洋哲学は無か有かの対立軸で物事をみている。それは、わかりやすくみえやすく、認識することができるから。このように二つに分けて考えることについて、柳は次のように語っている。
 

二つにものを分けて、対比させて考えるのは、人間の論理の習性である。

(『南無阿弥陀仏』P111より)

 

西洋哲学は対立する二層で考える。善か悪か、創造か破壊か、陰か陽か、勝者か敗者かなど、そして無か有。現代社会は、西側(西洋哲学)のイデオロギーで成り立っている。相手と競争し、相手を批判・否定して、自分の位置(ポジション)を確保する。相手だけでなく自分も、息苦しさや閉塞感を感じる。今私たちは、競争から共創(協創)を、否定から肯定を、そして多様性を受け容れる社会を求めている。
 

わかりやすく見えやすい対立で考えないためには、何が必要だろうか。
 

東洋思想的なアプローチだと考える。西洋哲学の二項対立に対して、東洋思想には「不二」という考え方がある。最初は聞きなれない言葉であったが、今は好きな言葉になった。不二とは、「対立する二つがまだわかれていない状態」を顕している。この不二について、鈴木大拙は次のように語っている。
 

仏教では、自他の対立は対立であるが、そこに対立を絶したものが働いていることを直覚し(これは霊性的自覚という)、この直覚から、対立の世界を見直すのである。

(『日本的霊性』P147より)

 

私はこの不二の考えを図で考えていたら、次のような像(イメージ)が顕れた。
 


 

二つに分かれる前に在ったものが、無と有に分かれる。無を「ない」と否定すれば、分かれる前の存在には気づかない。分かれる前の存在に気づくには、「ない」と否定するのではなく、「ない」と肯定的に捉える(受け容れる)ことが大切になってくる。漠然と浮かんだイメージで不安ではあったが、次の言葉に触れて安心できた。
 

否定そのものを肯定にする働き、ここに東洋的なるものの神髄に触れることが可能になる。

(『東洋的な見方』P112より)

西洋文化を吸収し消化するものでなく、何千年来我々を孚み(はぐくみ)来った東洋文化を背景として新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ。

(『西田幾多郎-生きることと哲学』P167より)

 

このように考え、ソウゾウのプロセスを次のように顕す。矢印の向きが、前回の最後に触れた「掘り起こす」と「浮き上がる」に想像できる。
 


 

二つのソウゾウが次のことを顕していることに辿り着いた。そしてこの考え方で、「無から有を生み出す」を否定せずに顕すことができる。
 

想像とは、の中に在るものを想うこと。

創造とは、在るものから何か(有)をつくりだすこと。
 

東洋の無の捉え方(想像)から、西洋的な思考で創造することで、無から有になる。
 

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