無④ 東洋と西洋の無の違いから、無を辿る

 

今までは、科学(数学)と西洋哲学そして東洋思想が無をどのように考えているのかについて、流れ(ストーリー)を追って辿ってきた。この探究の中で、無の捉え方が西洋哲学と東洋思想では違うことに気づいた。そこで流れではなく、西洋哲学と東洋思想の無の捉え方の比較から、無についてもう少し深く探究する。
 

西洋哲学や東洋思想で無をどのように語られてきたかを参考にした代表的な言葉を一覧にした。私が読んできた本の中では無について、西洋哲学は東洋思想と比較して論じていない。しかし、東洋思想は西洋哲学を否定せずに肯定して語っているそこで、西洋哲学からではなく東洋思想から、日本を代表する4人の言葉を引用しながら、無の違いを辿っていく。
 

その4人とは、仏教哲学者の鈴木大拙、東洋思想研究者の井筒俊彦、哲学者の西田幾太郎、思想家の柳宗悦である。何冊か本を読んだだけであり、4人の考えを理解している訳ではない。彼らの考えについて論じることが目的ではなく、彼らの言葉や考えから、私が何を感じどう考えていったかというプロセスがみえるように書いている。
 

最初は、鈴木大拙の「東洋的な見方」。違和感を生んだ4冊の最後の本で、この本を読んでイノベーションや無について探究することを決めた。この本を読まなければ、イノベーションについても無についても、今でもジレンマの狭間をループし続けているだろう。無に対する意識の向け方の違いを非常にわかりやすい言葉で、次のように語っている。
 

西洋人は「考えられない」ですましておく。東洋人は、その「考えられない」ところから出立する。

(『東洋的な見方』P9より)

 

次は、井筒俊彦の「意識と本質」。井筒の本は読めば読む度に、自分の内側に言葉が入っていく。無の捉え方(存在)と、東洋思想の「無から有を生み出す」プロセスを、次のように語っている。何(どこ)に意識を向けるかがみえてくる。井筒の本を読むのは難しいが、井筒の言わんとすることが少しみえてくると嬉しくなる。
 

神は世界を無から創った、という。世に有名な「無からの創造」のテーゼだ。但しこの「無」は、普通の解釈では、世界創造以前の、まだどこにも一物もない事態であり、その限りにおいて、「無」は神の外に見られている。ところが、カッパーラーは、「無」を神の内に見る。測り知られぬ「無」の深淵が神の内的構造それ自体の中にあって、その「無」が「有」に転換する。それが創造の始まりだ。

(『意識と本質』P236より)

 

続いて、西田幾太郎の「西田幾太郎-生きることと哲学」。この本は西田本人が書いた本ではなく、哲学者であり思想史研究者の藤田正勝が書いた西田哲学の入門書である。まだ西田に関する本はこの本しか読んでいない。西田本人が書いた言葉にも直接は触れていない。藤田の文章は、無についての西洋哲学と東洋思想の違いを見事に顕している。読みながら、上下に首を何度も何度も振った。「無から有を生み出す」と表現しながら、西洋哲学では起点が違うことを示している。
 

違いを書く前に、本に書かれた西田の経歴が非常に興味深かった。進路で数学か哲学かを悩み哲学を選び、禅に傾倒後哲学を思索し続けたとある。科学 × 西洋哲学 × 東洋思想が西田哲学にはあり、これから西田の言葉に触れることが楽しみになった。この本に書かれている無についての要点を整理して次のように纏める。

  • 西洋では「有を実在の根底」と考え、東洋では「無を実在の根底」と考える
  • 西洋では無を「有に対立するもの」と捉え、東洋では無を「有無を包んだ中にあるもの」や「有無の対立をも超越して内に成立させるもの」と捉える
  • 西洋では「存在から無」をみて、東洋では「無から存在」をみる

 

最後は、柳宗悦の「柳宗悦随筆集」。柳は他の3人とは違い、美から西洋と東洋の違いを顕している。他の3人に比べて表現方法が、数学的で美しく、心躍る表現だった。
 

東洋の美と西洋の美との各々の特色を、一番簡単に表明する言葉は、おそらく前者を奇数の美、後者を偶数の美と呼んでよいと思う。

(『柳宗悦随筆集』P222より)

 

この言葉の後に続いた文章の要点は、次の通りである。

  • 西洋は「完全」ということを追い求め、合理主義で論理的正確さをすべての面に求める
  • 東洋は「生命の深さ」を見て、不二を見つめ、非合理的なものを直観する

 

また西洋では、有や無は論理的な規定によって表されたものと柳は語っている。
 

4人の言葉を受け取って、次のように思索した。
 

科学や西洋哲学そしてイノベーションの「無から有を生み出す」の無や有は、二項対立の発想からの考えで、無は有を、有は無を否定することで、それぞれ存在している。自分が存在するために相手があるといってもよく、相手を通して自分をみせている。否定することで、自分がわかりやすくみえやすくなり、認識される。
 

現代社会は、わかりやすさや見えやすさを追い求めている。「見える化」や「見栄え」などが叫ばれているが、わかりやすさや見えやすさを求めた結果の弊害に意識を向けていない。直感力を重視した結果、直観力が失われ、本質を見抜けなくなっている。事物における本質とはその事物の中に在る。本質を見誤ることで誤解を招き、間違った方向へと私たちを誘う。間違った方向に向かわないためには、何が必要だろうか。
 

わかりやすく見えやすいほど「わかった」と錯覚し、深く考えずに走り続ける。逆に、わかりにくくみえにくければ、立ち止まって考えなければならない。短絡的に、合理性・効率性・生産性などを追い求めた結果、社会は、私たちの生活はどうなっただろうか。今起こっていることに目を向けると、私たちが望んでいたことだろうか。本当にこれでいいのだろうか。わかりにくく見えにくいことを、本当は大切にすべきでないだろうか。
 

わかりにくく見えにくいものを、私たちは古より大切にし、日本文化として愛してきた。西洋では無をないものと捉えるが、東洋では無に意味を持たせてきた。無を間や余白などという言葉で表現し、無の空間が在ることを知っていた。見えないものを受け取る心の眼を私たちは持っていた。近年私たち日本人が忘れかけてきた“無”の概念を、海外の人たちが意識していることは非常に興味深い。私たちはそこから、何かを学ぶべきではないだろうか。
 

本当に大切なことは、何かを創造することよりも、何かの存在に気づき発見すること。
 

無についての探究の旅は、ゴールに辿り着いた。最後は辿り着いた答えから、「無から有を生み出す」創造性について考えてみたい。「無から有を生み出す」は一つのプロセスだったが、二つのプロセスに分ける。
 

 

「無⇒(在)」は“想像”のプロセスで、「(在)⇒有」は“創造”のプロセス。そして、想像は元々在ったものを掘り起こして“みせ”、創造は新たな価値が浮き上がるように“みえる”ようにする。プロセスが二つに分かれ、“ソウゾウ”も二つの漢字(想像、創造)に分かれた。最後に、辿り着いた無から2つの“ソウゾウ”を思索して終わろうと思う。