無③ 無は創造するものか、それとも発見するものか

 

無に意識を向けないのは、いや向けられないのはなぜだろうか。
 

それは、「無=何もない」と思っているからではないだろうか。「何もない」と思っている、いや思い込んでいることに意識を向けるのは難しい。そこで、なぜ何もないと思うのかについて考えてみる。
 

私たちは、目にみえるものを信じ、みえないものを信じない。みえていないから、「何もない=無」と思うのではないだろうか。ではなぜみえないのだろうか。それは、光があたっていないから、無にみえている。暗闇の中に何かがあっても、その何かはみえない。しかし光があたっていないだけで、何もないのではなく、何かはそこ(無)に在る。光があたれば、みえてくる。この光こそが、意識である。
 

目の前の世界を疑わずに信じてしまうと、見えている世界の外側(みえていない世界)に意識を向けることは難しい。そこには、先入観や前提そして固定概念が意識に働くから。その事例を私のある経験から紹介する。
 

地方を訪れそこに住む人と話すと、「ここには何もない」とよく聞く。しかし、初めて訪れた私の目には、“ないもの”は見えていない。私の目には、そこに“在るもの”しか見えていない。私に見えた在るものを話して初めて、そこに何かが在ったことに気づく。あまりにも当たり前の日常の光景だったので、その存在に意識を向けることができなかった。
 

誰が、無だと言っているのだろうか。
 

多くは、「自分がみているものがすべて正しい」と思い込んでいる人たちが言っているだけである。無だと思っている(思い込んでいる)ものから視点をずらせば、視野を拡げれば、視座を変えれば、何かみえてくる。このみえてきたものが“無の存在”で、気づくことが創造性から起きる変化に大きく影響している。変化とは成長だと、私は考える。一般的には、「努力したから成長(成功)した」と思われている。しかし実際は、「どこに努力すればいいのか」を気づいたところから始まっている。努力さえすれば、成長できるのではない。
 

気づきは、変化の最大の触媒なのだ。

(『ニュー・アース』P113より)

 

あまりにも近すぎるとみえなく、そして気づかない。いや気づかないのではなく、気づけない。身の回りを探して「ない、ない」と叫び、少し落ち着いて探した場所を別の場所からみると、なかったものを発見した経験は誰にでもある。
 

本当の発見の旅とは、新たな土地を探すことではなく、新たな目で見ることだ。

(『「無知」の技法』P211で引用するマルセル・プルーストの言葉より)

 

以上のことから、無とは「何もない」のではなく、知らない/みえていない/気づいていない/意識していないなどの「ない」をさしている名詞の否定ではなく、動詞の否定である。別の人(目)からみれば、「ない」ではなく「ある」ことに気づくことができる。
 

外から内をみることができれば、そこ(無)に在るものがみえてくる。光としての意識を向けることで、みえなかったものがみえてきて、創造性に大きく影響する。
 

今までの話をまとめて「どうすれば創造的に考えられるか」について、次のような言葉がある。
 

創造性は、前述のとおり、未知なものを見出すために既知のものを整理しなおすことからなっている場合が多い。・・・・・したがって、物事を創造的に考えるためには、ふだん見慣れているものをあらためて見直す能力が必要だ。

(『内なる創造性を引きだせ』P46で引用するジョージ・ケネラーの言葉より)

 

ここまで、「無から何か新しいものは、創造されない」という答えについて書いてきた。無に意識を向けることで、気づきそして発見が起こり、創造できることも書いてきた。無に意識を向けていたら、新たな問いが、大きな問いが顕れた。
 

無は創造するものか、それとも発見するものか。
 

探究していく中で、創造と発見の間で、何ともいえない揺れを感じていた。この揺れは嫌な感じではなく、なぜか心地よく、考えれば考えるほど(揺れれば揺れるほど)楽しくなってきた。この揺れは、数学を専攻していたからかもしれない。
 

数学とは、はたして創造するものなのか。それとも、発見するものなのか。数学者の多くは、自分がなにかを創り出しているという感じと、科学の絶対真理を見出しているという感じの間を揺れている。数学者の着想は、個人に深く根ざしていて創造的な頭が在るからこそ生まれたと感じられることが多い。・・・・・真実は、ただそこで発見されるのを待っているだけであって、いかに創造的な思考をもってしても、真実を崩すことはできない。

(『素数の音楽』P73より)

 

これに似た感覚を数学で何度か経験した。私の場合、創造ではなく発見だった。問題の意図を、問題の別の解き方を、習っていないにも関わらず今までの公式やテクニックを活かして問題を解けた時に、嬉しさを感じた。仕事においても、問題の解決策を考えるよりも、本質的な問題を発見する方が楽しかった。
 

今までの話を一度簡単に纏めると、次のようになる。
 

無とは、「○○がない」ことではなく、「△△の存在に気づいていない」こと。

“無”の中に“在る”ものに気づくことから、“有”が生まれる。
 

この考えは、東洋思想に触れて強く意識した。無の中に在るもの、無から有が生み出すには何かが必要であることを、次の言葉が物語っている。特に、「名」があっての言葉は深い。無から有になるプロセスを、たった一文で顕している。
 

茶器が無地のものを慕うのは、当然であろう。だが、それはただの否定ではない。一切の「有」を内に含む「無」なのである。

(『南無阿弥陀仏』P300より)

「名」があって、はじめて「無」が「有」になり、そこにはじめてものが出現する。

(『意識の形而上学』P40より)

 

無についての思索の旅は、折り返し地点を越えた。超えた今、新たな問いがまた顕れた。
 

無を、東洋と西洋では同じようにみているのか、それとも違うのか。
その違いが、私に違和感を与えていないだろうか。