無② 無は何もないのか、それとも何かが在るのか

 

無からではなく、

既にあるものから、それらの組み合わせから、

新たな何かが創造されていく。
 

これは、「無から何かを、創造することはできるのか」という問いに対する答え。私だけが辿り着いた答えではなく、他にも同じようなことを語っていることを前回書いた。ここでは、“無”について探究していく。
 

無とは何か。
無とは何を意味しているのか。
何が無いのか。
 

このように聞かれたら、どのように答えるだろうか。実は、答えるのが難しい。頭の中に浮かぶ抽象的な答えは、誰もが持っている。しかしいざ言葉で表現しようとすると、言葉が出てこない。私自身も、うまくは答えられない。いや誰も、精確には答えられない。この問いに対する、誰もが納得できる答えがそもそもない。それは、思考や思想が大きく影響するから。思考や思想は一つではないから、誰もが納得できる唯一無二の答えは存在しない。
 

そこで、答えを問いから直接探すのではなく、アプローチを変えて間接的に探してみた。創造性に関連しそうな“無”のつく熟語をあげると、無形・無意味・無知・無意識・無関心・無心といろいろ浮かんでくる。熟語から考えると、三つの問いに答えられそうだ。しかし熟語を考えている中で、疑問が浮かんだ。疑問が疑問を生んでいく。思考が拡がっていくとともに、深く深く潜っていく感じだ。未知の世界の扉を開ける楽しみとともに、深海に囚われ二度と浮き上がれないのではという不安があった。
 

「無から有を生み出す」の無は、挙げた熟語のどの無に近いのだろうか。
「無から有を生み出す」と話す人の中で、無を説明できる人はどれほどいるのだろうか。
 

説明は、非常に難しい。「無から何かを作る」という創造性の表現方法に無理があることを、ビックバンを研究していた著名な物理学者のジョージ・ガモフが、次のように語っている。科学の第一人者の研究者ですら誤解を招くということで、“無”ではなく“無形”という言葉に置き換えていることは、留意すべき点である。
 

「creation(創造)」という言葉を使うことに対して、何人かの書評子から異議が出されたことに鑑み、著者(ガモフ)はこの言葉を、「無から何かを作る」という意味とは考えておらず、「無形なるものから形あるものを作る」という意味と考えていることを明らかににしておくべきだろう。

(『宇宙創成(下)』P320より)

 

専門家ですら難しいにも関わらず、私たちは「無から有を生み出す」という言葉を使う。難しいから使わないのならわかるが、難しいことをわかっているのに使っている。ここに、新たな疑問が生まれた。
 

なぜ、説明が難しく誤解を招きかねない“無”を使っているのだろうか。
 

まずいえるのは、多くの人は意識せず気にせずに使っている。一般的で当たり前のように誰もが使っている言葉だから、常識として使っている。「なぜ無から有を生み出すという表現をしていますか」と尋ねれば、「○○さんが使っているから」「△△に書かれているから」などの答えが返ってくるだろう。(尋ねたことはないが)
 

少し話がズレるが、その人の考えを聞いているのに、別の誰かの考えを答える人が実は多い。自分の考えではなく、人から借りてきた考えを自分の考えのように答える。自分の考えを言って批判や否定されることが嫌だから、自分の考えをあえて言わない人もいる。しかし多くは、「考える」いや「考え抜く」ということをしなくなったからだと思う。情報が多くあり、考えなくても答えが簡単に見つかるから、探究心が失われていった。
 

話を戻そう。次に、東洋思想の“無心”について考えてみたい。無心とは、「心がない」という意味だろうか。いや違う、「“無”という心の状態」であり、「形こそみえないが、その状態が在ること」を私たちは感覚的に無意識にわかっている。無心だけでない、他にもいろいろある。東洋では、「ない」という事実で捉えずに、何かが「在る」という状態を直観的に認識している。いや西洋哲学でも認識していて、無と存在について次のように語っている。
 

「無」は「存在」につきまとう。

(『世界はなぜ「ある」のか』P75で引用するサルトルの言葉より)

無は存在であり、存在は無である。

(『異端の数ゼロ』P103で引用するアズラエルの言葉より)

 

なぜこのように語っているにも関わらず、西洋哲学では「無か有を生み出す」を否定してきたのか。それは、創造主としての神の存在が大きく関わり、タブー視されてきたから。しかし東洋西洋問わずに、「無の中に何かが在る」ことを語っている人たちはいる語らなくても、感じている人たちは多い。哲学的、思想的な話になるから、距離を置く人たちも多い。そこで、無の中に何かが在ることについて、日常にあるわかりやすいイメージを紹介する。
 

昼間の星は見えなくとも、だからといって存在しないわけではなく、確かにそこにある。

(『美 「見えないものをみる」ということ』P204より)

「知らない」と「ない」でとらえるのをやめ、そこには機会と可能性が「ある」ととらえなければならない。

(『「無知」の技法』P134より)

 

なぜ、ないと思ってしまうのだろうか。いや、その存在に気づかないのだろうか。それについて、思わず息を吐いた言葉があった。当たり前だと思っている前提や固定概念や常識に疑いを持たなかったから、疑問に思わなかった。疑問に思わず問いかけをしなかったから、存在に気づかなかった。
 

ずっと前からそこに存在していたにもかかわらず、正しい問いかけをしなかったために見つからなかった。

(『素数の音楽』P137より)

 

私は違和感が生まれると同時に好奇心がわき、自分に問答するように、問いが浮かんでは消えていった。それがあったから、「無の中に何かが在る」ことに気づいたのだろう。何も感じなければ、疑問の答えを知りたいと思わなければ、気づかなかっただろう。この気づく方法の一つの「ウジャデ発想法」について、IDEOのトム・ケリーが次のように語っている。
 

「ヴジャデ発想法」。自分が知っているものを見ているときに突然それを新鮮に感じることをヴジャデとよぶ。このヴジャデによって「いつもそこにあっても気づかなかったものを見る」能力が養われる。

(『Q思考』P149より)

 

無を「何もない」と捉えてしまうと、無という状態(存在)に意識を向けることは難しい。
 

ここまで無は「何もない」のではなく「何かが在る」ことを書いてきたので次は、無に意識を向けるとはどういうことかをさらに探究していく。